八月の終わり。夏の陽光に照らされ、赤いカローラのボンネットは目玉焼きが焼けるほどに熱かった。私たちはサイダーを飲みながら、福井県の東尋坊に向かっていた。カーラジオからは懐かしいメロディが流れ、クーラーのついていない車内は暑く窓を全開にして私たちは国道8号線を下った。
「お母さん、元気かしら」
「お義母さんには心配かけたからな…土下座だけじゃすまんな」
「あら、あなた土下座するつもりだったの?」
私の実家は京都府舞鶴市にあった。東尋坊の帰りに、母の家に立ち寄ろうと話していた。ところが東尋坊の駐車場は満車で、仕方なく路肩に駐車した。下を覗くと荒波が巌門を駆け上り、白い飛沫をあげていた。私たちは恐る恐る車から降り、東尋坊の展望台を目指した。途中、サザエの壺焼きの露天商があったので後で食べようと話をした。ロープだけが張られた展望台は、激しい風を吹き上げ、波飛沫が岩を削っている。崖下に吸い込まれそうな錯覚を覚え、恐怖を感じた。
その時だった。
隣にいた夫に羽根が生えた。いや…生えたように見えた。白いワイシャツが大きく風をはらみ、グラリと前のめりになった。あっという間の出来事だった。夫の身体は宙を舞い、東尋坊の崖下へと消えた。悲鳴があちこちから上がり、親子連れの子供は泣き出した。顔色を変えた警備員が警察に連絡を入れている。私は土埃が舞う足元に力無く座り込み、茫然と空を見上げた。どこまでも高く、青い夏空だった。
「ご愁傷様です」
「ありがとうございます」
白い灯台躑躅が小雨に濡れていた。読経が流れる中、美術工芸大学の教授やゼミナールの学生たちが次々に焼香に訪れた。線香から立ち上る白い煙が祭壇に揺れ、夫は四角いフォトフレームの中で和やかに微笑んでいた。たった一年半の結婚生活だった。畳で項垂れていると、斎場の一角から心無い囁きが漣のように広がった。
…自殺ではないのか
確かに夫は前妻との間の子に養育費を支払っていた。二十歳までの約束だったが来年の春、私立大学への入学で莫大な額を請求されていたという。そのほかにも、「橙子を残して死ぬのは忍びないな…」「どうせ死ぬのならお前に幾らか残してやらないとな…」と話していた。縁起でもないことを!と二人で笑い合ったが、夫はいつの間にか五千万円の生命保険を掛けていた。
あれは事故だ。
舞鶴市へ行くと言っていた夫が自殺をする?それにサザエの壺焼きを楽しみにしていた…自殺をするわけがない。私を残して断崖絶壁に身を投じるなんてあり得ない。質の悪い噂話に耳を塞いだ。
「帰ってください!帰って!帰ってください!」
気がつくと無我夢中で参列者を家の外へと追い出していた。小雨の中、黒い傘をさし喪服に身を包んだ影がガラス戸から遠ざかって行く。静まり返った家に、鋳物の風鈴の涼やかな音が響き渡る。菩提樹の葉を濡らした雨が雫となって滴り落ちた。
「橙子…その…舞鶴の家に帰って来てもいいのよ?」
「大学の授業があるから」
「……そう」
母親は通夜の皿やコップを片付けながら、不安げに覗き込んだ。そして私の着物の裾を見て顔色を変えた。
「橙、橙子…あなた、大丈夫なの!?」
漆黒の着物の裾はドス黒い血で染まっていた。そういえば今朝から下腹がシクシクと痛んでいた。月のものだろうと準備はしたが、その量ははるかに予想を超えていた。それは流れるように畳を赤く染め上げ、痛みは増して来た。
「救急車!救急車、呼ぶわね!動かないで!」
「……う…うん」
母親は震える手でスマートフォンを握っている。次第に脂汗が額に滲み、目眩と痛みで夫の遺影が何重にも重なって見えた。程なくして救急車のサイレンが表通りで止まった。救急隊員が家に踏み込み、私をストレッチャーに乗せた。ガタガタと揺れる振動が下腹に響いた。雨粒が頬に冷たい。
目覚めた時、私は白い天井を見上げ人工呼吸器を着けていた。隣を見ると暗闇に緑の波形が規則正しく心拍数を刻み、耳障りなビープ音が部屋に響いた。点滴が菩提樹の雫のようにポタポタと落ちている。呼吸が苦しくなりナースコールのボタンを押した。
「目が覚めたんですね、良かった…どうしました?」
薄いカーテンを少し捲り、白衣の看護師が優しく微笑む。意識は朦朧としていたが、ストレッチャーの車輪の振動を背中に感じながら病院に運び込まれた。何人もの看護師が真剣な表情で見下ろしている。そして眩しいライトに照らされ…そこまでは覚えていた。
「息が…出来ない…んです…これ、外してもらっても…いいですか?」
「ちょっと待って下さいね」
看護師は手際よく人工呼吸器を外し、ワゴンの上に置く。自由に喋ることが出来るようになった私は何気なく聞いた。
「私…何かの病気だったんですか?」
鎮痛剤が効いているのか、ふわふわと宙に浮いているような気がする。
「……」
看護師は視線を逸らし、点滴の残量を確認した。ジワリと病室に重い空気が広がった。
「あの…」
「今、先生がいらっしゃいますから、その時にお話ししますね」
「…はい」
不安が頭を過った。やがて難しい顔をした銀縁眼鏡の医師がベッドの隣に立った。
流産だった。私は夫の子供を身籠もっていた。
「…今後、妊娠出産は難しいかもしれません」
医師にそう告げられた瞬間、母親は床に泣き崩れた。世界の全てが色褪せて見えた。
二度目の熱い夜以来、私たちは「放課後ゼミナール」が終わると奥の座敷で深く繋がり合った。そんな私は金曜日の朝、厳夫さんの遺影をそっと裏返した。胸に空いた穴には隙間風が吹き、それは雨宮右京の熱情だけでは埋められなかった。葉桜が色付き、鮮やかな赤や黄色の絨毯が煉瓦道を埋め尽くす頃、美術工芸大学恒例の学園祭が催される。学園祭の幕開けは、仮装行列。繁華街のメインストリートを仮装で練り歩くパレードは、沿道の声援に笑顔で応え戯けて見せる。この日ばかりは生真面目な教授もたこ焼きのマスクを被って手を振った。その隣で妖怪やリオのカーニバルの衣装に身を包んだ男子学生のグループがサンバのリズムで踊り狂う。日々の鬱憤を晴らす学生たちは車道にはみ出し警察官に引き止められた。赤い棒を振り誘導する警察官の気苦労を考えると、お疲れ様である。「今年も賑やかね…」このパレードは強制参加ではないが、雨宮右京もこの群集の波に揉まれ右往左往していた。「佐々木ゼミナール」の女子学生が、長身の彼のために黒いスーツに黒いマント、赤い蝶ネクタイを鼻息も荒く特注で準備した。それを否が応もなく着せられた彼は色白で薄茶の巻き毛、整った顔立ち……実に見目麗しいドラキュラ伯へと変身した。人との交流が希薄な彼は戸惑っていたが、その姿をカメラに収めようと行き交う人はスマートフォンをカバンから取り出した。広坂通
少し季節外れの鋳物の風鈴が軽く舌を揺らす。それはシトシトと降る雨にかき消されて消えた。私は籐の椅子から立ち上がり、動きを止めた雨宮右京へと近づいた。畳が軋む音が静かな茶の間に響いた。「………そうなの、私には子宮がないの」「子宮、ですか」彼は生々しい臓器の名前にたじろいでいた。私は意地悪な笑みを浮かべた。「子宮がなくても女に見えるかしら?」「え……」「どう、見える?」シクシクと無くした子宮が痛むような気がした。肩までの黒髪から、白檀の香りが匂い立つ。「女に見える?」
八月の下旬。その夜は「放課後ゼミ」は課題の締め切りが迫る者、急遽アルバイト先のシフトが入る者と、皆、早々に席を立ち、午後八時にお開きとなった。テーブルに残されたのは飲みかけのビール瓶やグラス、焼き鳥の串に油まみれの皿と散々な状態だ。予定の無かった雨宮右京はその場に残り、テーブルから洗い物をキッチンのシンクに運び、飲みかけのビール瓶の後始末をする。スポンジに食器用洗剤を垂らし…洗剤…洗剤とは…彼は生まれて初めての食器洗いに手間取っていた。「先生、洗剤はどのくらい付ければ良いんですか?」「あぁ…適当よ、適当。チョちょっと垂らしてゴシゴシよ」「は…はぁ。そうですか」私は縁側に腰掛け、溶けかけた氷に琥珀色のウィスキーを注ぎ、色気のない指でカラカラと混ぜた。雨宮右京がキッチンに立ち皿を洗うと部屋の中の空気が揺れた。スポンジの泡が排水口に流れてゴボゴボと音を立てている。「また詰まったのかしら…いやね、もう」ゴボゴボと音を立てる配管に愚痴を溢しつつ静かな時間を楽しむ。隣には「好きです」と告白してきた男性がいる。私はそのひと時に酔い
両脇が石垣の急勾配。葉桜が枝を伸ばす坂道を上ったその先に、煉瓦造りの美術工芸大学が建っている。一階の駐車場の片隅やその奥の空き地には彫刻デザイン科の生徒が掘り出した石膏作品がゴロゴロと転がり、正面玄関にはレプリカの”サモトラケのニケ”が大理石の台座の上で大きく羽根を羽ばたかせている。私が助教授として勤める染色デザイン科の教室は、味気の無いコンクリート造りの二階にある。キュッキュッと滑りの悪いビニール貼りの床、鈍色の扉のネームプレートには「染色デザイン室」と黒いゴシック体の文字が並ぶ。隣室は油絵絵画室で、真夏になるとテレピン油独特の臭いが立ち込め気分が悪くなった。階段の踊り場からは青々とした芝生広場が一望でき、太い幹のシイノキの樹がポツンポツンと生えているのが見えた。雨宮右京は、そのシイノキの樹の下が気に入っているようだ。他の学生との関わりが希薄な彼は、いつも一人で染色に使えそうな果物の皮を剥いていた。課題を出してから一ヶ月半、何の音沙汰もなく業を煮やした私は、黙々と作業に取り掛かる彼の前に腰に手を当て仁王立ちした。私の顔が逆光で見えなかったのか、見上げた彼の視力が弱いのか、雨宮右京は私を誰だろうという顔をして見上げた。「雨宮くん、あなたいつになったら家に来るの?」「あぁ…向坂先生」「先生じゃ無いわよ、課題はどうしたの!」
それ以来、私の目は雨宮右京の背中を追うようになった。廊下ですれ違う横顔は冷酷なまでに無口で美しく、彫像のようだった。シイノキの枝にロープを張る時はTシャツの裾が捲れ上がり、しなやかな姿態が覗き胸がざわめいた。「…今週も来なかったわね」金曜の夜は彼がいつ現れるかと、ガラスの引き戸がカラカラと音を立てるたびに釘付けになる自分を年甲斐もなく…と失笑した。シイノキの再会から半月経っても彼は現れなかった。 「…今週も来ないのかしら」五月の末、灯台躑躅の白い蕾がふさふさと溢れる夕暮れ。日本酒の一升瓶を片手に雨宮右京がようやく私の家の敷居を跨いだ。「こんばんは、雨宮です」ガラス戸の玄関を入ってすぐ、三和土から杉の段を上がると畳敷の茶の間がある。金曜日の「放課後ゼミナール」では、学生たちが酒や肴を持ち寄り有意義な時間を過ごした。幸い私の家は大通りから入った細い路地の突き当たりにあった。周囲は空き家ばかりで何の気兼ねも要らない。その夜も賑やかで、雨宮右京の少し低い声は茶の間まで届かなかった。
喪中にも関わらず、生命保険会社から年賀はがきが届き苦笑いをした。バレンタインデーには夫が好んだ黒羊羹を仏壇に供えた。赤い南天の実をメジロがついばみ、雪が解け始める頃には一人の朝にも慣れた。吾亦紅の主人が言った「出会うべくして出会う人」にはまだ巡り会えず、鳥の巣頭の男性のことも忘れかけていた。そんな矢先のことだった。「先生!エドガー・アラン・ポーに会った事、ありますか!?」「なに。小説家の話?」染色デザイン科の女子学生が鼻息も荒く助教授室に傾れ込んできた。「違いますよ、漫画の登場人物ですよ!」「ああ、あれね」漫画に疎い私でも知っている美しい吸血鬼の少年たちの物語だ。女子学生が言うには、その登場人物のように美しい男子学生が染色デザイン科に転入してきたらしい。そこで私に「彼」に会ったことがあるかと尋ねてきたのだ。「先生のゼミには…!いませんか!?」ゼミナールの学生の顔を思い浮かべる